昭和48年03月19日 朝の御理解



 道教乃大綱 一、
 「疑いを離れて広き真の大道を開き見よ。我身は神徳の中に生かされてあり。」

 金光様の御信心は疑おうと思うても、疑う余地がない程しに、おかげを受けることから始まる。疑おうにも疑いようがない。疑う余地が無い程しの、おかげを受けて行かなければならない。そこから自然と、成程わが身は神徳の中に、生かされてあるんだなという、信心の要になるところ、生かされて生きて居る喜びというものが、段々頂けて来る様になると思うのです。ですから、先ずは疑おうにも疑いようのない程し、のおかげを受けることが先決です。
  昨日、お月次祭の後に教話を頂いた。初めの間はサラサラとお話が出来たんですけれど、半ば頃から、どっこい何を話してよいやら、分からないような状態になって、まあいうならしどろもどろで終らせて頂いた。皆さんも気付かれたかと思う。私は自分ながら驚いた。お祭りを終って着替えさせて頂いておるところに、西見病院の長男の西見君と、小野病院の長男の豪治君と二人がやって来て、改まった姿勢でお願いをするのです。従兄弟同志なんですが。
 小野先生が何とかという病気で、頭に血の貯る病気なんです。御飯一粒のどを通らないと言った様な、重態に陥ってこのままだったら、死ぬるより他にないと、お医者さんが言われますと、親先生、今日の御理解頂いております、と真の信心を分からせて貰わんならんが、どうすりゃ真の信心が分かるでしょうかと、親の命を助けたいばっかりに、そういう訳です。
 本当にその事柄、その問題を通して信心を分かって行くと言う事なんですけれども、まあさあ今頃真の信心が分からなきゃ親父が助からんと言う様な事じゃでけんじゃないか。とにかく助けて貰うことが先決というてお取次をさせて頂いたことです。私が昨日お月次祭の後にお話をさせて頂いたのは、テレビを見よって「赤ちゃん、頑張って下さい」と云う何かコマーシャルの文句でした。それを聞いてもうえらい、お食事を頂かせて頂きながら感動させて頂いた。「赤ちゃん、頑張って下さい」と。
 その事からお話を聞いて頂いて、その事はまあ皆さん聞いて頂いた。そして私の懐の中に私はあんな事も初めてでしたが、懐の中に昨日頂いた朝の御理解をここに入れておった。そして今日はこの事を昨日も申しましたけれど、この事は大変難しいことだけれども、分かっておくだけでも分かっておかなければいけないよというので、昨日お月次祭に参拝した人にも分かって貰おうと思うて、懐から入れておりましたから出して、これを聞いて貰ってこれを説明しようとしだしたところから、お話が止まってしもうた。
 だからそれから、いうならもどろでようやく説教台を下がらせて頂いたんですけれども、 昨夜から本当に私は思わせて頂くことはね、もう金光様の御信心というのはおかげを頂く道ですね。おかげを頂くと言う事です。もう願って願っておかげを受けて行く道です。それをね、真の信心が分からなければと言う様になってきたらです、もう信心のまあ、いうならです、おかげを渡す力がなくなってきた証拠です。
 おかげが頂けなくなって来ると宗教は段々、いわば本当なことを説明しだす。本当な事というのは、これが真の信心だと言う事を大変難しく説くようになる。そうすると段々おかげの方が影が薄うなってくる。そしておかげとか、御利益とかと言う事を言う宗教は、いわば邪教だと迄決めつける人がある。そういう信心は低級だと言う様になる。これはもう恐ろしいことだと私は思うた。
 金光様の御信心、特に私は合楽ではです、こう言う事になってはならない。もうやはりおかげが先決。でなからねばね、疑いを離れてと仰るけれども、眼にも見えない聞こえもしない神様を信じろといったって信じられないよ。説明の上で頭の上で理論的に分かった神様じゃなあにもならん。それはもう、教学者なんか、いうならば神学を修める人達なんかは、それは神様の事をどんなにでも学問の上で分析して知っておるけれども、御利益にはならん。おかげにはつながらない。
 何も知らない、字ひとつ知らない無学の者でも「金光様、助けて下さい」と例えば一心に縋る術を知っておる人ならば御利益が頂かれる、おかげが受けられる。おかげを受けて、おかげを受けて受け抜かせて頂いて、どこから考えても神様を疑う余地の無い程しの私はおかげを受けて信心を勧めて行かなければならん。勿論だからどうぞとまあ、あらゆるねがいをさせて頂きます。
 取分けそんなら五つの願いと言った様なことが合楽のかけ声の様に言われておりますから、願って願い抜かにゃならんがです、願いと同時に、より本当な信心を分からせて下さい。一足飛びじゃない、昨日のこれは一足飛びのぎりぎりのところのこれは御教えなんです。だからこれは昨日も私は申しました、これは皆さん覚えておかなければいけないと言う事。「相対を越えねば、絶対には到らない。」
 「絶対に徹すれば絶対の他何もない。」おかげというものを対照としてはならない。もう信心とは神様に心が向いていくことだけが信心だと、事実はそうです。けれどもそういう一足飛びの事を昨日私がお話しました様に、昨日或方がお参りをして見えて、或難儀な問題でお参りをして来る人がです、「おかげの事を願われないというならお参りをする元気がなくなる」と言うた。
 確かにそうですよ。この事をどうでもおかげにして頂かなければならん、と思うから元気も出るのである。そしておかげを頂いて神様のおかげの、いわば間違いなさというものを、段々積んだ上にも積み上げさせて頂いて、いわゆる絶対のものというものは、生まれて来る訳です。先ずはおかげを受けなければならない。同時に願わせて頂く事柄の最後に必ず願わなければならない事はです、どうぞおかげを頂かせて下さい。もう一足飛びに分かることはいらん。
 今頂いておるものよりか、一歩でも一分一厘でも進んでいきゃいいのである。今私が頂いておる信心よりもです、より本当なことを分からせて下さいという願いは勿論しなけりゃできない。成程、夕べのお月次祭にです、私がみんなに、いわば本当の本当のギリギリのところを説明しよう、話そうとしだしたら、お話が出来なかった、というのも成程と合点がいくのでございます。
 例えば親父がです、難しかろう様に医者が言われる。ですから夕べの御理解を、まあ二人連れ頂いておって真の信心を分からせて貰いたいとこういう訳なんです。けれどもその真の信心と言う様な事が一足飛びに分かる筈はない。真の信心が分からなきゃ親父の命が助からんと言った様なのじゃ間に合わん。とにかく助けて下さいが一心、助けて下さいが先ず先なんだ。そしてです、真の信心というよりも、今頂いておる信心よりもより少しは本当な信心へ進ませて下さいという願いは持たなければいけん。
 だから、様々なところがあっていいのである。大学生もあってよし、高校生もあってよい。と言う事なんです。必ず大学生の私のような信心しなけりゃならんと言う事はない。疑いを離れて、疑おうにも疑う余地が無い程しのおかげを頂く。そこにはです、どうしても、いうならば生き生きとした迫力が要ると言う事です。これはもう絶対のもの、願うからにはいうなら一生懸命のものがなからなきゃならない。
 どの様な願いでも自分の心の中に、これと思う願い事がお互いあるのですから、それをもうそれこそ、かき口説くように、繰り返し繰り返し願うがよい。けれどもそれは、何処までも一心を貫かせて貰う、生き生きとした元気な信心が必要である。それでおかげが受けられんなら、これもまあだ自分の信心が足りんのだと、もう一段今度は願う信心でもよいから、もう一段一辺参りよったのなら、二辺も参ろうと言った様なです。
 信心をしていく以外にはない。もう押して押して押し上げていく。成程押し坂忍と言う事は、そう言う事でもあろうかと思うた。そこからいよいよ疑うにも疑う余地がない程しの絶対の神様を頂くことが出来る。いや広き大道を開き見よ、我が身は神徳の中に生かされてあると言う事も、もう実感として感じれれる様になる。お生かしのおかげを頂いておると言う事。
 その事だけでも我が身は神徳の中に生かされてある喜びというものが実感として出来て来るようになる。「信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ」という御教えがある。例えばそういう信心を私共は子供に孫に伝えておかなければならない。こげな難しい事いうて、これが分からなければおかげは頂かれんなんて言う事じゃない。子供は子供なりにです、願うことを教えるというか。
 願わなければならないことは、それこそ子供でも持っておる筈ですから、願うことを教えとかなければならない。そういう信心をです、特にそれを思う。本当に末の末まで教え伝えれる信心を私共が頂かなければいけん。そして疑うにも疑う余地がない程しのおかげを先ず頂かなければならない。勿論それは心の上にも形の上にもであります。そこから我が身は神徳の中に生かされてあると言う事が。
 いわば実感として感じれれ頂かれるようになる。お互いの願いに迫力を持とう。どうでもという願いをさして貰う。そしておかげが受けられんなら、まあだお願いが足りんのだ、まあだ信心が足りんのだという迫力を、いよいよそれにかけていくところの、信心をさせて頂いて行くうちにです、絶対に徹して行けれる、絶対の他にもう何もない、いわゆる金光様有り難うございますと、お礼を申し上げる以外にはない。信心も又は心境も開けて来ると思うですね。
   どうぞ。